「大阪」の記事一覧
日本一低い山!?
今日も卒業旅行のせいか、
顔にペインティングしたお客様が多く見受けられました♪
『USJ』も夕方5時から7時までに開園時間も長くなり
より一層遊べちゃいます!!
さて。
今日は大阪にある『日本一低い山』!?
が出来るまでの話。
江戸時代の頃。
大阪は日本の“商い”中心として発展しました。
その要因のひとつとして、『川』が発達していたことにあります。
当時は“今”と違って物流の要となっていたのは
『船』で、各藩から海を越えそれぞれの藩の“特産物”を運んできました。
現在の『中之島』は特に大阪の中心で
各藩の“蔵屋敷”が軒並みあり、そこまで運ぶため
『安治川』・『木津川』・現在の『大川』などを利用していました。
また、
これらの川は上流から“土砂”が流れ、底にたまり
時折、船の運行を妨げていました。
そこで『天保二年』の今日。
商人たちがお金を出し合い、その底にたまった“土砂”を
取り除く一大事業が始まりました!
その期間は約二年。
この一大事業に携わった人数は述べ十万人ともいわれ!
その大きさを物語っています。
そして気になることが一つ。
『その取り除いた“土砂”はどこへ行ったのか?』
その土砂でできたのが
『日本一低い山』の『天保山』!!
名前の由来はもちろん“天保時代”に出来たからで
現在もその姿を残しています。
隠れた『大阪名所』です♪
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大阪一の図書館
久しぶりに『大阪商人』のイイ話。
改修工事が進み、ドンドン整備されていく『中之島』。
そんな中、
今も昔も人々の憩いの場となっている図書館があります。
その名は
『大阪府立中ノ島図書館』
その始まりは大阪唯一の図書館
『書籍館』(しょじゃくかん)が
経営難で閉鎖されたことに始まります。
市内の人々は再開の声を上げますが、
予算がなく、なかなか受け入れられませんでした。
そんな中。
その話を聞いた『住友 吉左衛門』が、
なんと!建設費20万、
図書購入費5万の寄付を申し出たのです!!
そして、この寄付をきっかけに、
その住友家の技師『野口 孫市』(当時28歳)をはじめ、
住友家の人々を中心に建てられ
明治三十七年の今日。
『大阪府立中ノ島図書館』は誕生しました。
現在では
70万冊、三千人以上が訪れる大阪最大の図書館といわれ、
同じく中之島にある『中央公会堂』とともに、
”大阪商人”たちの遺産として今も輝いています。
『芸術は短し、貧乏は長し』
『芸術は短し、貧乏は長し』
昭和九年の今日に亡くなった
『直木 三十五』の最後の言葉だそうです。
毎年、
作家を目指す人たちの登竜門とされる
『直木賞』。
今年は
『道尾 秀介』さんと
『木内 昇』さんが受賞されました。
その『直木賞』の元となった
『直木 三十五』が大阪出身であることは
あまり知られていません。
大阪の当時、南区と呼ばれていたところにある
内安堂寺町(空堀のあたり)で生まれました。
薬局に勤めたり小学校の代用教員などをしたり、
また自ら会社をおこしたりしましたがどれもなかなか上手くいかず。
その後、
雑誌の編集の仕事を始めたころから小説を書き始めました。
当初、
ペンネームは書き出したころの年齢三一歳にちなんで
『直木 三十一』とし、
その後年齢を重ねるごとに数字を増やし改名していきました。
書く作品はどれも鳴かず飛ばずでしたが、
『直木 三十五』に改名したのち連載した
『南国太平記』で一気に売れっ子作家の仲間入りを果たします。
しかし、
売れた時期は短く、
すぐに病魔におかされ肺結核が原因で亡くなりました。
この時四十四歳。
その早すぎる死を悼み、
功績をたたえて友人の『菊池 寛』さんが
『直木賞』を立ち上げ、今日に至ります。
『芸術は短し、貧乏は長し』
一言で彼自身の人生を表しています。
昔は『活動写真』と呼んでいました。
お昼はだいぶと暖かくなってきた今日この頃。
洋服選びがなかなかむずかしいです。。
さて、今日は『活動写真』の話。
今やテレビは『2D』から、
まさかの『3D』へと移り変わるこの時代。
『映像』はさらに美しくリアルになって来ました。
その『映像』というものの元をたどると『明治時代』へとたどり着きます。
フランスから『「シネマトグラフ』なる機械を輸入した
『稲畑 勝太郎』が当時『戎橋通り』にあった
『南地演舞場』で『じどう写真会』と銘打って
上映したのが最初といわれています。
その後、
『スクリーン投射』の出来る現在の映画の元といわれる
『ヴァイタスコープ』なるものを作った
『エジソン』本人から直接購入したといわれている
『荒木 和一』が西区の『新町演舞場』で
『活動写真』という名で上映しました。
そして、
『ヴァイタスコープ』の映像と
『蓄音機』の音と合わせて上映されることにより
『活動写真』は庶民の娯楽へとなっていきました。
それが現在の『映画』や『テレビ』へと進んで今日に至ります。
昔の人たちが現代の『活動写真』を見たら
それこそ、目玉が飛び出るぐらいビックリするでしょうね。。