「大阪」の記事一覧

今も『檸檬』が贈られています。


今日の朝は晴天でしたが、今は雨。。
季節の変わり目のこの時期は天気が分かりませんね。
さて。
今日、2月17日は『梶井 基次郎』の誕生日。




大正14年に発表された代表作の短編『檸檬』は
何ともいえない少年時代のいたずら心を素直に表した作品で、
近代文学の原点のような作品といわれています。
大阪千日前も舞台となっている
『夫婦善哉』の作者
『織田 作之助』も『梶井 基次郎』のことを絶賛しています。
またその他の作品は
『冬の日』
『櫻の樹の下には』
『闇の絵巻』などありますが、
『檸檬』に比べるとネガティブかつ繊細で
表現が難しいように思います。。
それは『梶井 基次郎』自身が幼少時代から
病弱で病を患っていたところにあるのかもしれません。
結核におかされ、31歳という短い生涯を終えた
『梶井 基次郎』のお墓には今もファンから『檸檬』が贈られています。

『梅林』を見に行っては。


今週はビックリするほどの『雪』が降ったり、
かと思いきや、こんだけきれいな『晴天』になったりと
最近の天気はよくわからないですね。
それでも
少しずつ“春”へ向かっています。
大阪城の『梅林』も2月下旬のこれからが見ごろ。
平日にもかかわらず多くの人たちが写真片手に訪れています。




元々この『梅林』は1972年(昭和47年)。
現在の大阪府立北野高校(旧制北野中学)の
開校100周年記念としてそのOBの人たちが大阪市に寄贈したのが始まり。
寄付された22品種、880本の梅の木を元に1974年に梅林が開園しました。
その後、色々な種類の『梅林』が植えられ、
現在では品種の数、西日本一ともいわれています。
またその昔。
『梅』の名所は大阪城周辺ではなく、
今は『桜のメッカ』となっている『桜ノ宮』周辺が『梅』の名所であったそうで、
あの『大塩 平八郎』も見に行っていた!?ともいわれています。
これからどんどんと温かくなる季節。
『桜』の前に『梅』を見に行っては。。

大阪が首都に!?


大阪がもし『首都』だったら?!




そんな嘘みたいな話も
1868年(慶応四年)だったら
有り得たかもしれない・・・。
時は幕末。
当時、遷都論が盛んに唱えられ
時の尊皇攘夷派で知られた
『大久保利通』
『岩倉具視』
『三条実美』らが政府側に
『大阪遷都建白書』を提出したのが1868年(慶応四年)の今日でした。
そこには
大阪が首都として優れている点や
これまでの他国との交流などが記載されていました。
しかし。
それに反論を訴えたのは
のちの郵便制度を確立した『前島密』でした。
(大きな郵便局の前にある銅像の人です。)
この『前島密』は逆に江戸を遷都する方がよいと唱え、
また、大阪が適していない所を六か条にし示したのでした。
一つ目が大阪は日本の真ん中ではない。
二つ目が港が小さく、大きな戦艦が入らない。
三つ目が道路が狭く、
四つ目が街もまた狭い。
五つ目は皇居を作るところがない。
そして最後は大阪は今のままでも繁栄するが江戸は衰退する。
とまあ、こんな風に文句をつけて『大阪遷都』はなくなり、
結局、江戸に『遷都』を持っていかれてしまったわけです。
もし、
大阪が『首都』だったら・・・。
標準語が“大阪弁”になっていたかもしれないですね。。

伊丹空港、開場。


旅行の際に使う交通手段の一つ、『飛行機』。




関西では『伊丹』に『関空』それと『神戸』と3つの空港を持っていますが、
関西いや、日本で最初に民間旅客機を飛ばす空港ができたのは
なんと!!
『大阪市大正区』なんですね!!
昭和四年のころで“木津川尻”のところにでき、
日本航空株式会社(JAL)が旅客機を飛ばしていました。
しかし、旅客機便が増えるにつれ、
この場所は手狭となり、政府は『伊丹空港』へと移転を考えます。
そして、
“木津川尻”より10年後の今日。
『伊丹空港』が開場されました。
その後、
第二次世界大戦のため、滑走路などを拡張し
軍事用として使われ、敗戦後は米軍に接収。
昭和二十六年にやっと民間機の使用を許され
(それでも米軍と共同だったそうです。)
昭和三十三年には返還されました。
国際空港としては翌年から使用され、
そして現在へと受け継がれています。
なんとも波乱万丈な空港ですね。

商売繁盛!笹持って来い!!


さて。
今日は『十日戎』にちなんで『えべっさん』の話。




大阪ではこの時期、
商売繁盛を願って毎年行われるのが『十日戎』。
その際にまつられる神様が『戎大神』と呼ばれる
通称『えべっさん』。
この『戎大神』の信仰は元々、
西宮にある『西宮神社』から始まり、その歴史は古い。
元は、日本列島を作ったとされている
『イザナキノミコト』と『イザナミノミコト』夫婦により
生み出された『蛭児』(ひるこ)で、
姿かたちはクラゲのようで手足がなかったため
この夫婦により海に捨てられてしまいました。
その『蛭児』を海で見つけたのが西宮の人たちで、
これまでに見たことのない姿かたちをした神様としてまつったのが始まり。
この時に
この『蛭児』に『夷三郎殿』という名前が付けられ、
その名前がのちに『戎大神』へと変わっていきました。
元々、
海から来た神様なので“豊漁”や“航海安全”の神様とされ
そして室町時代に入ると、西宮から大阪湾や瀬戸内海との交易が栄えはじめ、
『戎大神』は“商売繁盛”や“金運”の神としてもまつられるようになります。
さらに江戸時代。
『戎大神』は西日本にも布教され
また、大阪が“日本一の商業都市”となると
大阪商人は『戎大神』を“福の神”としてまつるようになり、
正月十日の“恵比寿祭”は大阪商人には欠かせないものとなりました。
そして、
大阪商人は『西宮神社』からお札をもらい
“恵比寿棚”を作り、正月十日に鯛を供えました。
また、
その際に『西宮神社』で福をもたらす“縁起物の笹”が売られたことにより
『商売繁盛!笹持って来い!!』
というフレーズが生まれたそうな。。
ちなみに
『西宮神社十日戎』への参拝者は百万人以上といわれています。