男女〇〇禁止のきっかけはペリーとハリス?!





今日も暑い!!
明日は少し雨が降るそうですが、
日曜日なのでちょっと困るんですが。。
今日は旅館の“あれ”に関する話。
今や世界各国から日本の“温泉”や“銭湯”など
『お風呂』を目当てに来る人もいるそうで、
“日本の文化”の一つとして認識されています。
その“日本の文化”の
『お風呂』ですが、もともと江戸時代の頃は
『男女混浴』で男と女が一緒に入浴するのが当たり前で
まさに“裸の付き合い”という言葉の通りでした。
しかし、幕末の頃から
この『男女混浴』が禁止されてしまったそうです。
そのきっかけとなたのは鎖国をやめ、
『黒船襲来』など外国人を受け入れたためだったといわれています。
たとえば、
ペリー提督は日本のお風呂を見たとき『男女混浴』という習慣がなかったため
『日本人はなんと破廉恥な人民だろうか』といい、
また、ハリス駐日総領事も
『なぜこのような品の悪いことをするのか理解に苦しむ』などといっていたそうです。
このため、
列強の国々と肩を並べたい日本は明治元年頃から
各地で男女混浴禁止令を出し、現在の入口や浴場が別々となったそうです。
(ちなみに、大阪は東よりも早く9月10日に発令されたそうです。)
当時の“男”はみんなガッカリしたでしょうね。。

最終電車ならぬ最終〇?!





昨日とはうってかわって晴天。
日差しは肌を刺すような光ですが、
風は少し秋らしい哀愁を感じます。
早く秋がきたらいいのに。。
今日は普段の生活の“足”のありがたさを。。
大阪で一番有名な祭りといえば、
もちろん、『天神祭』。
その『天神祭』のときに観光客の多く訪れる橋があります。
JR桜ノ宮駅からすぐ近くの『源八橋』がそれです。
この橋ができたのは昭和11年ごろで、
それまではこの大川(旧:淀川)の両岸は
『渡し舟』で行き来し『源八渡し』として
人々の生活の“足”となっていました。
『渡し舟』ということはもちろん人が舟をだしているので
いつでも渡れるというわけではなく、
終電ならぬ、終舟があったわけです。
もしかしたら
ちょっと酔って帰って舟に間に合わなかったら
川を泳いで帰っていた人もいたかもしれませんね。
(カナリあぶないですが。。)
また、
江戸の頃は東岸の方は梅の名所だったそうで(現在は桜ですが。)
あの『大塩 平八郎』もこの渡し舟に乗って梅を見に行っていたそうです。
今の世の中。
ほんとに便利ですね。日々感謝。。

昔はたいへんだったんですね。





今日は全国的に台風日和。
東日本では豪雨で川が氾濫したりとTVを見ていると大変です。。
大阪も風は普段よりきついですがあまり雨は降っていません。
今日は川にちなんで“橋”の話。
その昔。
日本の商いの中心であった淀屋橋周辺。
この辺りに多くあったといわれる“橋”。
それが
『船入橋』です。
この『船入橋』は
呼んで字のごとく“船”に関係する“橋”で、
昔、この辺りには川の両岸にたくさんの卸問屋があり、
それぞれ“倉”を持っていました。
さまざまな地方から運んできた荷物を
その“倉”に入れやすくするため、
おのおのが自分の土地の中に“川”を作り、
“倉”の横まで入ってこれるようにしていました。
そして、
その“川”に“橋”が架けられ、
それが『船入橋』と呼ばれたそうです。
また、この『船入橋』。
名前の由来がその用途からきているため、
さまざまなところに同一名の“橋”があるそうで、
大阪以外の地域にも“倉”の近くに特に多いそうです。
もしかしたら、
みなさんの近くにもあるかもしれませんよ。

今は一方通行ですが・・・。





今日も暑い!!
そのため、今も海に行く人が多いそうです。
しかし!海の家は8月までのところがほとんどで、
フランクフルトは食べれないそうです。
さて、今日は久しぶりに“橋”の話。
今現在残っている二つの“堀川”のうちの一つ、
『東横堀川』。
これに架かる橋は公儀橋の『高麗橋』をはじめ、
『本町橋』や『農人橋』など数多くの橋が架かっています。
その一つに
『大手橋』というのがあります。
この橋は、江戸時代の頃は大阪城に続く“橋”として人々に使われていたそうです。
そのため、
通常の橋は通りと同じ方向に作られるのですが、
この橋は通りに対して“Tの字”に架けられ
外敵が攻めにくいようにという工夫が施されました。
この架け方から、大阪城から町に行くとき、
どちらの道を行くかと悩んだところから
またの名を『思案橋』とも言われたそうです。
現在は、
一方通行になっているので悩むこともないですが。。

島之内から世界へ!





今日も暑い日が続きます。
今年は
これまでで一番ポカリスエットを飲んでいます。
結局すべては汗に変わるだけですが。。
今日は島之内にあった
日本を支えた工業をご紹介。
寛永年間の1640年ごろ。
現在の島之内一丁目の辺りは
住友家二代目・友以によって世界有数の銅精錬所が作られました。
友以の父は元々京都で“銅吹屋”を営み、
『南蛮吹』という技術の第一人者といわれた『蘇我理右衛門』。
また友以は
住友初代の娘と結婚したことにより二代目となり、
大阪で本格的に“銅吹所”を始めました。
また
この“島之内”。
東を『東横堀川』
西を『西横堀川』
北を『長堀川』
南を『道頓堀川』に囲まれているため、
まるで“島”のようなところから『島之内』と名づけられました。
そのため
当時は船で運搬していたので
この場所は特に便利だったのでここに作られたといわれています。
この『住友銅吹所』。
江戸時代の頃には全国から“粗銅”を集め、
日本最大の銅精錬所となり、
全国の生産量のうち住友家が1/3を作るほどになり
巨万の富を得たそうです。
また自らも銅山を所有し、特に愛媛にある別子銅山を見つけたことにより
オランダや中国・朝鮮などに輸出するぐらいになりました。
その後は両替商なども商い、
現在の住友へとなっていきました。
ちなみに、
現在の『住友銅吹所』跡は碑があるのと、
住友の繁栄を表す日本最古のビリヤード場が残っているだけです。
なんとも今の姿からは思いつかないですね。